出稼ぎに出て

「我は部下と共に出稼ぎに出て、ぬば玉の闇の夜に、人間の村の、村の下手に船を着けた。我一人村の中央へ歩いて行くと、思いもかけず、大きな家の、家の内部から、焚火の光が、あかあかとさしている。忍び足に近寄って、上座の窓から窺うと、これなる大きな家の、右座の炉端には、老翁老婆が並んで坐り、上座には、二人の男が並んで坐り、左座には、美しい少女が坐っていた。一同黙然として何事か打案じている様子であった。やがて老翁が云うよう『これ吾子たちよ、些かにても故実を弁えている我の云うことをよく聴きなさい。今夜は、吾身の背後を何物にか狙われているかの如く、気が落着かず、少しも眠ることが出来ないので、お前達を揺り起したのである。年廻りが悪くて、疫病神たちが往来する時は、いつもそうだった様に、今夜も特別眠れないのである。娘よ、大鍋に水を入れて掛けてくれ!』と云うと、少女は言下に起って、大鍋いっぱいに水を入れて、炉の上に掛けた。次いで老婆が起上り、火尻座の方から[#「火尻座の方から」は底本では「火尻座の法から」]大きなコダシを取出して、何かしら鍋の中へ入れた。老翁は更に語を継いで『娘よ、外へ出て、村の上の端れ下の端れに向い、(今夜は少しも眠れないから kikinni(エゾノウワミズザクラ)だの atane(センダイ蕪)だのを煮て、その煮汁で、村人たちよ、お前達の毛虱のタカった腐った陰部をお互いに洗い会い、その水をそこらに撒きなさい。又、兎やイカリポポチェツポ(針河豚)を煮て、酒宴を開きなさい!)と叫べ』と云うと、少女は戸外へ飛出して、村の上の端れ下の端れに向い、言われた通りに叫んだ。すると、村じゅうざわめいて、眠っていた人々が右往左往した。やがて、何とも言い様の無い悪臭がして、呼吸も詰りわが腹の底を引繰り返して掻き雑ぜたように、嘔吐を催して来た。大鍋は溢れんばかりに沸き立ち、家いっぱいに悪臭がぱっぱっと立昇った。そこまで見て我はつと窓の下から身をひるがえし、飛ぶようにして海辺へ駆けつけて見れば、こわ如何に、部下の大部分は、人間たちの悪臭に斃れていた。我は大いに驚いて、部下を励まし(アイヌの国土は悪臭ぷんぷんとしているから、いざいざ和人の国土へ働きに行こう!)とて、一同と共に長々しく船を列ねて海上へ出た。されど、kikinni とかいうもの atane とかいうものの悪臭が、どこまでも我等の身に附き纏うて、和人の国へ出稼ぎに行くこともならず、今はもう懲々したので、今後は決してアイヌの国土へは、出稼ぎに行かないつもりである――と疱瘡の神が自ら物語った。」[#ここから1段階小さな文字][#ここから2字下げ](知里真志保―アイヌ民族研究資料、第二、第124―126頁)[#ここで字下げ終わり][#ここで小さな文字終わり] ただし、この物語りの中で「お前達の毛虱のタカった腐った陰部」といってあっても、それは決して村人たちの陰部が実際に腐っていたのでもなければ、毛虱がタカっていたのでもない。(多少はタカっていたかもしれないが)単に、そう公言することによって、悪魔を退散させ得ると信じられていたのである。[#ここから1段階小さな文字][#2字下げ](知里真志保同上文献、第126頁)[#地付き]〈『北方研究』第一輯 昭和27年12月〉[#ここで小さな文字終わり]

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