「近代の憂欝」といふ言葉

 たゞこゝに問題となるのは、一旦「懐疑」の穽に落ち込んだ青年の、理想を見失ひ、「夢」はたゞ「現実」を逃避せんがための「夢」にすぎず、精神の糧はたゞ理論、生活の目標は快適、といふやうな状態にみる例の冷やかな憂欝であります。 それはまた、「満たされざる」気持にひきずられる自分の姿の惨めさを発見することによつて、やゝもすれば「自己嫌悪」につながるものです。 嘗て「近代の憂欝」といふ言葉も流行したくらゐ、西洋でも、ハムレット以来、懐疑と魂の漂泊を誇示する青白い憂欝は、詩的で、ちよつと伊達《だて》な、青年好みの時代色でありました。 これはやがて、「世紀病」とも名づけられたとほり、ヨーロッパ文明の崩壊を予告する徴候の一つとも見るべきもので、文学としてはこの傾向がわが国にも多少伝へられてゐます。 しかしながら、文学の影響だけが、今日まで、知識層の青年を駆つて懐疑主義に赴かしめたと断ずることはできません。忌憚なく云へば、それは「現実」の在り方、特に政治と教育との大きな責任であります。「懐疑は知識の母」といふ文句が度々口にされました。それはさうでありませう。しかし、懐疑は人生に必要なすべてのものの母ではないといふことを誰も云ひませんでした。それを悟らなかつたのは、必ずしも青年の罪ではありませんが、悟ることの遅きを悔いてゐるのはわれわれであります。 魂の漂泊とはなんでありませう。「国土なき民」であり、「根こぎにされた草木」であり、「家なき子」であります。たしかに寂寥そのものです。「憂欝」の種がこゝにもあるとすれば、それは、日本人には縁なき「憂欝」だと云はなければなりません。「孤独な魂」とは、なるほど、文学的表現としては一応意味があります。しかし、真に「孤独な魂」は、決して憂欝を面《おもて》に出しはしません。それはまた、寂しさを知らぬ、強靭にして豊かな精神を指すからであります。 要するに、「近代の憂欝」が、まだわが国のそここゝに残つてゐるといふ気配が私には感じられるのです。たしかに残つてゐる筈です。これを一掃しなければ、わが国の発展の障碍となることは明らかです。先づ、自我中心の思想と、科学万能の迷信を打破しなければなりません。次に、功利主義に基づく教育の殻を脱し、日本的政治の復興に堂々と協力することです。

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